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紫式部の生きた
平安時代

延暦13年(794)、長岡京から平安京へと遷都し、鎌倉幕府が成立する文治元年(1185)までの約400年続いた「平安時代」。この時代は、天皇中心の政治から藤原氏が権力をもつ〝摂関政治〟へと転換していきました。彼らはどのようにして権力をにぎったのでしょうか?
今回は、紫式部や同年代に生きた人々に注目して、平安時代の暮らしを一緒にみていきましょう!

Point!

✓桓武天皇により、長岡京から平安京に遷都される。

✓平安時代は、延暦13年(794)~文治元年(1185)とされる。


✓平安時代中期~後期は、実質的な政治の中心は藤原氏がにぎり、摂政や関白として天皇を補佐する摂関政治を行う。
  
✓かな文字や国文学などの国風文化が発達する。
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平安時代主な出来事

延暦13年(794)
・桓武天皇が都を平安京に移す。
・律令政治が改革される。
延暦16年(797)
・坂之上田村麻呂が征夷大将軍となる。
貞観8年(866)
・藤原良房が関白になる。
元慶8年(884)
・藤原基経が関白になる。
寛平6年(894)
・遣唐使が停止される。
天慶2年(939)
・平将門の乱(~940)
・藤原純友の乱(~941)
長和5年(1016)
・藤原の道長が摂政になる。
天喜元年(1053)
・平等院鳳凰堂が建てられる。
仁安2年(1167)
・平清盛が太政大臣となる。
文治元年(1185)
・壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。
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挑戦しよう!
平安時代基礎問題

実際の公開ページでは回答部分が閉じた状態で表示されます。
  • 桓武天皇が都を京都の平安京に移したのは西暦何年の出来事?

    794年。
  • 藤原氏が権力(けんりょく)をにぎった政治を何政治という?

    摂関政治(せっかんせいじ)。
    天皇が幼少のときに天皇にかわって政治を行う職を「摂関(せっかん)」、天皇が成人したあとも天皇の補佐(ほさ)して行う職を「関白(かんぱく)」という。この地位を独占して、政治の実権(じっけん)をにぎる政治のことを『摂関政治』という。
  • この時代に発展した、日本独自の文化を何文化という?

    国風文化。
    外国の影響を受けた飛鳥文化や天平文化と異なり、日本の風土や生活に合った文化が発展した。国風文化が発展したのは、菅原道真の進言による遣唐使の停止があったから。
  • 遣唐使とともに唐に渡り、帰国後は新しい仏教の宗派を日本に伝えた人物が2人。
    それぞれの名前と、どこに何という寺を建立し、どの宗派を広めた?

    ●最澄は、比叡山に延暦寺を建て、天台宗を広めた。
    ●空海は、高野山に金剛峯寺を建て、真言宗を広めた。
  • 次の仮名文字による文学作品は誰によって書かれた作品?
    『源氏物語』
    『枕草子』

    『源氏物語』:紫式部
    『枕草子』:清少納言
    女性による仮名文字文学が多いことも国風文化の特徴である。
    男性貴族たちは、引き続き漢文の詩を作った。和歌は男女ともに詠まれていた。
  • 平安貴族が住んでいた住宅の形式は、何と呼ばれている?

    寝殿造(しんでんづくり)。
    一つ一つの建物が廊下(ろうか)で結ばれ、広い庭や池が備えられるようになった。室内のふすまや屏風(びょうぶ)には、中国の風景だけでなく、日本の風景も描(えが)かれるようになった。これを「大和絵(やまとえ)」という。
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平安時代くらし

9世紀後半から10世紀頃、貴族は引き続き唐風の文化を好みました。10世紀から11世紀頃になると、唐風の文化をもとにしながら、日本の国土や生活、日本人の感情に合った文化を生み出していきます。これが、国風文化です。ここでは貴族のくらしを中心に、国風文化の特徴をみていきましょう!

Point!

✓かな文字の発達

✓文学作品の誕生

✓住居、絵画、調度品、服装などの変化

✓浄土の信仰
かな文字
文化の国風化を象徴するものの1つが、かな文字の発達。9世紀には万葉がなの草書体を簡略化した平がなや、漢字の一部をとった片かなが表音文字として用いられていました。字形は11世紀初めごろにほぼ一定し、広く使用されるようになります。その結果人々の感情や感覚を日本語で生き生きと伝えることが可能になり、多くの文学作品が生まれていきます。
貴族は公式の場では従来通り漢字だけで文章を記しました。かなは和歌を除いて、公式には用いられなかったものの、日常生活は広く用いられるようになり、優れた文学作品が誕生します。
文学作品
まず盛んになったのは、和歌です。延喜5年(905)、紀貫之によって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されました。
物語では、『竹取物語』や『伊勢物語』などに続いて、紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』、藤原道長の栄華をたたえた歴史物語『栄華物語』などが書かれました。
【写真は、『源氏物語』夕顔巻、鎌倉時代の古写本(©colbase)】
国風美術
10世紀頃の貴族は寝殿造と呼ばれるつくりの建物に住んでいました。国風文化が発達する以前は、建物で靴をはき、椅子に座り、ベッドで寝ていた貴族でしたが、寝殿造りの建物では靴を脱いであがり、床の上に畳を敷いて座ったり寝たりする生活様式に変化していきます。
また、日本独自の発展をとげた手法が用いられた調度品(日常的に用いる道具類)は、輸出品としても珍重(ちんちょう)されるようになります。
浄土教が流行すると、藤原道長が建立した法成寺、藤原頼道の建立した平等院鳳凰堂など、建築・美術作品も数多くつくられました。
貴族の服装
生活様式の変化に伴い、服飾も国風服飾へと変化していきます。男性の公服に束帯(そくたい)、布袴(ほうこ)、衣冠(いかん)を身につけるようになります。私服には流階級の貴族が直衣(のうし)、下級貴族は狩衣(かりぎぬ)を身につけていました。一方、女性の公服は唐衣裳装束を身につけました。天皇の妃以下、上級階級の貴族たちの私邸での日常は、袿姿(うちきすがた)でした。
当時の貴族のおしゃれのポイントは〝重ねの美〟!男女とも重ねの配色に心を配り、四季折々の植物名をつけ、その配色を着ることで植物の風情と季節感を装いに取り入れました。
【写真は、束帯等着用図(藤原時代風俗画内)(©colbase)】
浄土の信仰
摂関時代は、天台・真言の2宗が圧倒的な勢力をもちます。一方で、神仏習合も進み、仏と日本固有の神々とを結びつける本寺垂迹説(ほんじすいじゃく)が誕生します。また、怨霊(おんりょう)や疫神(えきしん)をまつることで疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)などの災厄(さいやく)から逃れようとする御霊信仰(ごりょうしんこう)が広まります。
現世利益を求めるさまざまな信仰と並んで、現世の不安から逃れようとする浄土教(じょうどきょう)も流行してきました。10世紀半ばに空也が京の市でこれを説き、源信が『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著して念仏往生の教えを説くと、貴族をはじめ、庶民の間にも広まっていきます。
※本寺垂迹説・・・神は仏が仮に形を変えて、この世に現れたものとする思想のこと。
【写真は、阿弥陀如来坐像(©colbase)】
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紫式部偉人たち

紫式部が生きた平安時代は、主に北家藤原氏が天皇家と結びつきを強め、次第に勢力を伸ばしたことで、藤原氏が政治の実権を握っていました。ここでは摂関政治に携わっていた偉人たちとその関係性をおさらいしましょう!

Point!

✓10世紀後半~11世紀頃に行われた政治を摂関政治と呼ぶ。
 また、摂政・関白を出す家柄を摂関家という。

✓摂政・関白の地位争いは、10世紀末の藤原道長の時におさまる。

✓道長の子・頼道は、3天皇の約50年にわたり、摂政・関白を勤める。


✓政治の運営は、摂関政治のもと、天皇が太政官を通じて中央・地方の官吏を指揮する。

紫式部ゆかりの人々

紫式部

天延元年(973)頃、藤原為時の娘として誕生。『源氏物語』の作者。夫は、藤原宣孝。

父・為時の家系は藤原北家に連なり、歌人や漢学者を多く輩出した家系。母を早くに亡くしたことから、父の影響を強く受けた。弟・惟規よりも早く漢文を理解したことで、父・為時から「男だったら良かったのに」と嘆かれた有名な逸話がある。【画像:国立国会図書館蔵】

紫式部

藤原為時

菅原道真の孫である菅原文時に師事。大学寮では紀伝道(歴史学科)を専攻。花山天皇時代には、式部丞などを歴任するが、花山天皇が退位すると散位という無職のような状態になる。紫式部の「式部」は為時の官職名に由来。長徳2年(996)、不遇を嘆いた漢詩が道長の目に留まり、大国・越前守に任命される。寛仁2年(1018)、摂政・頼通邸宅の屏風に詩を献じたが、その後の消息は不明。

紫式部の父

藤原為信女

紫式部の母。本名は不明。父・為信は、承平5年(935)頃の生まれで、中納言・文範を親とする。天禄の初年(970)頃に、為時と結婚したとみられる。息子・惟規を産んでまもなく他界したといわれる。

紫式部の母

藤原惟規

若くして父・為時と同じ文章生(紀伝道を専攻した学生)となる。『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)から5年まで少内記・蔵人(くろうど)・兵部丞として名が掲載されている。父。為時が越後守に任じられた時、ともに赴任。寛弘8年(1011)、赴任先で没する。

紫式部の弟

藤原宣孝

父は権中納言・藤原為輔。円融天皇の御代末に六位蔵人兼左衛門尉を務めた後、院判官代に任命される。右衛門権佐として京に戻り、長徳4年(998)に山城守を兼任した頃、紫式部と結婚する。長保3年(1001)4月、疫病のため死去。

紫式部の夫

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サンプル 太郎
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VOICE

藤原道長ゆかりの人々

藤原道長

康保3年(966)、父・藤原兼家と母・藤原中正の女・時姫の三男として誕生。兄の道隆や道兼が相次いで疫病で亡くなり、姉・詮子からの後援により、伊周との権力争いに勝利した。

道長は娘・彰子を天皇の寵愛を得られる女性にしたいと考え、教養の高い女性たちを仕えさせた。『源氏物語』の評判を聞きつけた道長は、紫式部に彰子の出仕を求めた。

長徳4年(998)から治安元年(1021)まで書き続けた『御堂関白記』は自筆の物が残っている。これは、国宝のみならず、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」にも登録されている。【画像:国立国会図書館蔵】

藤原道長

藤原兼家

妻は、時姫。貞元元年(976)に冷泉天皇の女御として入内した超子に居貞親王(のちの三条天皇)が誕生し、外戚としての地歩を固めていく。寛和2年(986)、娘・詮子が生んだ懐仁親王を一条天皇として即位させると、自ら摂政となり、政権をにぎる。永祚元年(989)に摂政大臣、正暦元年(990)に一条天皇の加冠の役をつとめたが、同年5月、摂政太政大臣を辞する。さらに、関白を長男・道長に譲って出家。7月2日に62歳で没する。

道長の父

藤原時姫

道長が毎年正月21日に経供養した斎食を行っていることから、天元3年同日に死去したと考えられている。その14日前(正月7日)に、15歳の道長が従五位下に叙されていることから、末っ子である道長の元服を見届けて没したとみられる。

道長の母

藤原道隆

永祚2年(990)、長女・定子を一条天皇の女御として入内させ、同年には父・兼家に代わり関白、その後に摂政となる。長徳元年(995)、病に伏す。嫡子・伊周に関白の座を譲ろうとしたものの許されないまま、同年4月6日出家。4日後に死去。『大鏡』や『枕草子』などによると、おおらかで朗らかな性格で大の酒好きだったとみられる。

道長の兄

藤原道兼

正暦元年(990)、父・兼家の死後に兄・道隆が関白になると、道兼は自分が選ばれるべきだったと父を恨み、喪中にも関わらず遊びにふけたといわれる。長徳元年(995)に道隆が亡くなると、念願の関白に就任。ところが、宣下してすぐに病死してしまう。性格は、冷酷かつ意地が悪く、兄へ文句ばかり言っていたといわれる。

道長の兄

藤原詮子

円融天皇の女御となり、天元3年(980)6月1日に第一皇子懐仁親王を生んだ。のちの、一条天皇。一条天皇の即位にともない、皇太后となる。出家にともない上皇に準ずる処遇を受けたが、これは女院の初例であった。女院号を東三条院という。詮子は、兄弟たちの中でも末弟・道長をかわいがり、明子との結婚も詮子の計らいがあった。父・道兼の次の執権を道長と伊周のいずれかに担わせるかという局面において、天皇に直談判および、翻意させた。このことから、道長の栄華の道程で重要な役割を果たした女性のひとりといえる。

道長の姉

藤原超子

安和元年(968)に冷泉天皇の後宮に入内。翌年、冷泉天皇譲位後に、居貞親王(のちの三条天皇)、為尊親王、敦道親王、光子内親王を産んでいる。天正5年(982)に急死する。

道長の姉
藤原道義(母・藤原忠幹の娘)
藤原道綱(母・藤原倫寧の娘)
藤原綏子(母・藤原国章の娘)
道長の異母兄弟

源倫子

父は源雅信、母は藤原朝忠の娘・穆氏。永延元年(987)12月26日、道長と結婚。父・雅信は、道長を婿に取ることを反対していたが、母・穆氏のとりなしもあって結婚を認める。結婚をすると雅信の邸宅、土御門第にて道長と同居をはじめる。一家三后という道長の達成した栄華を后の母として、内実を裏面からも照らしていた。

道長の妻(正妻)

源明子

父は源高明、母は藤原師輔の娘。安和2年(969)、父・高明が太宰府に左遷されたため、叔父の盛明親王の養女となる。盛明親王が没した後の寛和2年(986)に、道長の姉・詮子に引き取られ「宮の御方」と呼ばれる。道長の兄・道隆や道兼も明子に心を寄せたが、詮子の計らいにより、道長と結婚することになる。

道長の妻(妾妻)

円融天皇

第64代天皇、在位は安和2年~永観2年。村上天皇の第五皇子で、母は中宮藤原安子。子は、詮子所生の懐仁親王のみ。永観2年に師貞親王(花山天皇)に譲位し、寛和元年(985)に出家。和歌に優れており、勅撰集には24首入集している。

道長の姉・詮子の夫

高階貴子

父は高階氏として初めて公卿に列した高階成忠。詩文にたけており、女房三十六歌仙に数えられる歌人でもある。通称は高内侍、または儀同三司母。道隆の病死や伊周と隆家が都を追放される時、出立の車に同行を願ったが、許されることはなかった。その後、息子たちの身の上を念じながら死去。

道長の兄・道隆の妻

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サンプル 太郎
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VOICE
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もっと楽しむ!平安時代

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もっと楽しむ!
大河ドラマ『光る君へ』


2024年大河ドラマ『光る君へ』は

『源氏物語』の作者・紫式部をモデルとして描かれる物語。
歴史人Kids WEBでは「平安時代がどのような時代だったの?」
「貴族たちはどのような暮らしをしていたの?」など
ドラマの中に登場する史実部分に注目した記事を配信中!

2024.03.25
2024.03.22
2024.03.14
大河ドラマ『光る君へ』・藤原道長を演じる中で柄本佑さんがみえた変化や発見とは?
2024.03.14
おじゃる丸と一緒に「光る君へ」ゆかりの地とスタジオを訪ねる平安ツアーへ出かけよう!
2024.03.04
2024.01.01
2023.12.27
2023.12.19
2023.12.15
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もっと楽しむ!
紫式部ゆかりの地

【 滋賀県 大津市 】

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もっと楽しむ!
平安時代のおしゃれさん


〝美しさ〟の基準は、時代や
それぞれの好みによって異なるもの。
では、平安時代はどのようなスタイルをしていると
〝おしゃれ〟と評価を受けたの?
令和5年の流行と比較してみました。
イラスト・文:tomekko
※こちらの記事は外部サイト(歴史人WEB)内の記事となります※

メイク編

時代劇って髪型や衣装はその時代に合わせて時代考証されているけど、お化粧ってどうなんだろう?実はね…お化粧だけは忠実に再現するとドラマが成立しなくなってしまうんです。

ファッション編

美しく染め上げられ、たっぷりと生地を重ねた装束が目を引く平安貴族のファッションですが、その特徴を現代と比べて見てみましょう。

内面編

2023.6.7配信予定!

食事編

2023.7.12配信予定!

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【参考文献】歴史人Kids vol.2(ABCアーク) / 東大教授がおしえる日本史をつかむ図鑑(二見書房) / 日本服飾史(東京堂出版) / 新しい社会(東京書籍) / 中学生の歴史(帝国書院) / 中学歴史 日本と世界(山川出版社) / 詳説日本史(山川出版社)/ 藤原道長事典~御堂関白記からみる貴族社会~(思文閣出版)/ 紫式部と摂関政治の時代がよくわかる本(河出書房新社)/ とってもやさしい中学歴史 これさえあれば授業がわかる(旺文社)

更新中‼

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