天延元年(973)頃、藤原為時の娘として誕生。『源氏物語』の作者。夫は、藤原宣孝。
父・為時の家系は藤原北家に連なり、歌人や漢学者を多く輩出した家系。母を早くに亡くしたことから、父の影響を強く受けた。弟・惟規よりも早く漢文を理解したことで、父・為時から「男だったら良かったのに」と嘆かれた有名な逸話がある。【画像:国立国会図書館蔵】
菅原道真の孫である菅原文時に師事。大学寮では紀伝道(歴史学科)を専攻。花山天皇時代には、式部丞などを歴任するが、花山天皇が退位すると散位という無職のような状態になる。紫式部の「式部」は為時の官職名に由来。長徳2年(996)、不遇を嘆いた漢詩が道長の目に留まり、大国・越前守に任命される。寛仁2年(1018)、摂政・頼通邸宅の屏風に詩を献じたが、その後の消息は不明。
紫式部の母。本名は不明。父・為信は、承平5年(935)頃の生まれで、中納言・文範を親とする。天禄の初年(970)頃に、為時と結婚したとみられる。息子・惟規を産んでまもなく他界したといわれる。
若くして父・為時と同じ文章生(紀伝道を専攻した学生)となる。『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)から5年まで少内記・蔵人(くろうど)・兵部丞として名が掲載されている。父。為時が越後守に任じられた時、ともに赴任。寛弘8年(1011)、赴任先で没する。
父は権中納言・藤原為輔。円融天皇の御代末に六位蔵人兼左衛門尉を務めた後、院判官代に任命される。右衛門権佐として京に戻り、長徳4年(998)に山城守を兼任した頃、紫式部と結婚する。長保3年(1001)4月、疫病のため死去。
康保3年(966)、父・藤原兼家と母・藤原中正の女・時姫の三男として誕生。兄の道隆や道兼が相次いで疫病で亡くなり、姉・詮子からの後援により、伊周との権力争いに勝利した。
道長は娘・彰子を天皇の寵愛を得られる女性にしたいと考え、教養の高い女性たちを仕えさせた。『源氏物語』の評判を聞きつけた道長は、紫式部に彰子の出仕を求めた。
長徳4年(998)から治安元年(1021)まで書き続けた『御堂関白記』は自筆の物が残っている。これは、国宝のみならず、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」にも登録されている。【画像:国立国会図書館蔵】
妻は、時姫。貞元元年(976)に冷泉天皇の女御として入内した超子に居貞親王(のちの三条天皇)が誕生し、外戚としての地歩を固めていく。寛和2年(986)、娘・詮子が生んだ懐仁親王を一条天皇として即位させると、自ら摂政となり、政権をにぎる。永祚元年(989)に摂政大臣、正暦元年(990)に一条天皇の加冠の役をつとめたが、同年5月、摂政太政大臣を辞する。さらに、関白を長男・道長に譲って出家。7月2日に62歳で没する。
道長が毎年正月21日に経供養した斎食を行っていることから、天元3年同日に死去したと考えられている。その14日前(正月7日)に、15歳の道長が従五位下に叙されていることから、末っ子である道長の元服を見届けて没したとみられる。
永祚2年(990)、長女・定子を一条天皇の女御として入内させ、同年には父・兼家に代わり関白、その後に摂政となる。長徳元年(995)、病に伏す。嫡子・伊周に関白の座を譲ろうとしたものの許されないまま、同年4月6日出家。4日後に死去。『大鏡』や『枕草子』などによると、おおらかで朗らかな性格で大の酒好きだったとみられる。
正暦元年(990)、父・兼家の死後に兄・道隆が関白になると、道兼は自分が選ばれるべきだったと父を恨み、喪中にも関わらず遊びにふけたといわれる。長徳元年(995)に道隆が亡くなると、念願の関白に就任。ところが、宣下してすぐに病死してしまう。性格は、冷酷かつ意地が悪く、兄へ文句ばかり言っていたといわれる。
円融天皇の女御となり、天元3年(980)6月1日に第一皇子懐仁親王を生んだ。のちの、一条天皇。一条天皇の即位にともない、皇太后となる。出家にともない上皇に準ずる処遇を受けたが、これは女院の初例であった。女院号を東三条院という。詮子は、兄弟たちの中でも末弟・道長をかわいがり、明子との結婚も詮子の計らいがあった。父・道兼の次の執権を道長と伊周のいずれかに担わせるかという局面において、天皇に直談判および、翻意させた。このことから、道長の栄華の道程で重要な役割を果たした女性のひとりといえる。
安和元年(968)に冷泉天皇の後宮に入内。翌年、冷泉天皇譲位後に、居貞親王(のちの三条天皇)、為尊親王、敦道親王、光子内親王を産んでいる。天正5年(982)に急死する。
父は源雅信、母は藤原朝忠の娘・穆氏。永延元年(987)12月26日、道長と結婚。父・雅信は、道長を婿に取ることを反対していたが、母・穆氏のとりなしもあって結婚を認める。結婚をすると雅信の邸宅、土御門第にて道長と同居をはじめる。一家三后という道長の達成した栄華を后の母として、内実を裏面からも照らしていた。
父は源高明、母は藤原師輔の娘。安和2年(969)、父・高明が太宰府に左遷されたため、叔父の盛明親王の養女となる。盛明親王が没した後の寛和2年(986)に、道長の姉・詮子に引き取られ「宮の御方」と呼ばれる。道長の兄・道隆や道兼も明子に心を寄せたが、詮子の計らいにより、道長と結婚することになる。
第64代天皇、在位は安和2年~永観2年。村上天皇の第五皇子で、母は中宮藤原安子。子は、詮子所生の懐仁親王のみ。永観2年に師貞親王(花山天皇)に譲位し、寛和元年(985)に出家。和歌に優れており、勅撰集には24首入集している。
父は高階氏として初めて公卿に列した高階成忠。詩文にたけており、女房三十六歌仙に数えられる歌人でもある。通称は高内侍、または儀同三司母。道隆の病死や伊周と隆家が都を追放される時、出立の車に同行を願ったが、許されることはなかった。その後、息子たちの身の上を念じながら死去。
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